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久家道子ストーリー

ひとり旅で入学式へ


「このひとは中国から一人で帰って来たのだよ」ミセス羽仁が、励ましを含めて一言、紹介をしてくださり、私の自由学園での学園生活がスタートした。
昭和十八年、太平洋戦争も刻々と厳しさが増してきており、外地から一週間もかけて帰国するにもかかわらず、もはや親が付添ってくれるほど甘い時代では無くなっていた。

その日から始まった学園生活のすべては、実に目新しいことの連続で、寮生活は早朝午前五時起床、南沢の自然に包まれた野外の景色や草木の匂いが新鮮で、親もとを離れるまで大陸的な暮しのなかにいた私にとって、驚きと喜びに満ちた毎日の連続であった。
戦時中とはいえ、その一年間は比較的落ち着いて授業もできたが、その時の物事の本質を見極める教えは、五十年後の私の仕事に対しての物の考え方、価値判断はじめ、デザイン・制作・商談の基本となるにふさわしいバックボーンとなった。
クラスを六つの家族に分けるため、羽仁もと子先生が一人一人を丁寧に、それぞれの性格等を組み合わせて、人間関係のバランスの大切さを活かす考え方をお示しになった。長所、短所、円満、短気、勝気等々、個々の特徴を一人の人格として評価されることの有難さ、大切さはそれぞれの自信と自覚につながったことと思う。

毎日の授業は実学で、たとえば数学はまず学園をよく知る生活数学として学び、科学も広い学園の敷地のなかを歩きまわって観察する生活科学により、小川の水も、樹木、草花、小鳥、虫までもが親しく感じられた。音楽では私はヴァイオリンを器楽にえらび、山本直忠先生の指導のもと全校合奏、コーラスに 「天地創造」「タンホイザー」と、そのスケールは大きいものだった。また、美術教育に対する当時の学園の姿勢は、一年生の私たちにとってはもったいないくらいで、内田巌、本郷新、吉岡堅二、佐藤忠良、斎藤長三など、当時一流の先生方を招いて接業を与えてくださった。また八回生の山室光子先生ほか優秀な工芸の先生 方の指導によって、ミセス羽仁の文化教育、美術教育をとおしての本物の教育とは何か、を私たちに語りかけてくださったことを感謝している。


 
戦時工場動員を体験

昭和十九年に入り、普通科二年生になった頃からいよいよ戦争もはげしくなり、クラス全員中島飛行機製作所に動員されることになった。しかし機械工として働くために、宮嶋先生ほか技師の先生によって、思いがけないほど貴重な勉強を受けることになり、その勉強が大きなプラスとなっていまも活かされている。精密器具の使い方、精密製図の画き方、機械の扱い方、「工程」についての考え方の順序、これらを学んだ後、施盤工として、学校工場に昼夜交替で勤務することになった。
東伏見の武蔵製作所に通った日が、丁度爆撃日に当たり、九死に一生を得て、夕方、黒い煙の中に真赤な太陽の沈むのを眺めながら東伏見からトボトボと歩いて学園まで帰ったことが、ついこの間のことのように想い出される。その日の空襲で、午前中に講議をしてくださった優秀な石渡技師と、高三の川田文子さんが、帰らぬ人となられた。一般授業では体験出来ないこの工場動員の勉強も、私のいまの仕事のためにも大きく活きていることを痛感し、貴い体験であったと思う。

終戦の直前六月、中国の両親の消息もわからぬまま、止むなく祖母の住む宮崎に疎開し休学をすることになってしまった。翌年やっと引揚げて来た家族が落着き、一年以上も過ぎていたが、復学を許していただければとの願いをきき入れられミスタ羽仁が「世俗的なものを持ち込まないように」と一言おっしゃってくださり、一年下の普通科四年に入れていただいた。私のほかにも数人が他校から転入が許されたり、復学を許されたり、自由学園でも異例の時代であったと思う。二八回生と一緒に入学し、二九回生で卒業したが、学部が出来た級のため30回生で卒業した人もいる珍しい体験をもっている。

戦後、中国より引揚げた両親も、財産を失くしてしまいながらも、なんとか昭和二十六年三月の卒業までは、私の学資をつづけてくれた。卒業式の翌日から自立の約束のもとに、お料理の勉強を目標に、紹介していただいた大阪、堺の辻元家のお世話になることとなり、社会人の第一歩を歩み始めた。


 
大阪堺でスタート

昭和二十六年、卒業と同時に、三二回生辻元友子さんのお母様の八重子女史(地域婦人連合会副会長)のお世話で、スウェーデン人宣教師を紹介していただく。給料をいただきながらの料理修業ということで、精力的に働きつつ料理を教えていただいた。 
戦後やっと六年経過した頃の日本にとって、北欧の地に足のついた生活から文化的な刺激を十分に影響を受け、生活工芸=ヘムスロイドは、後に刺繍の名前としてスウェーデン刺繍と名付ける要因ともなった。
一年余りの間、辻本八重子女史のアシスタントとしても多くのことを学ばせていただく。辻元家は学者の家系でいらっしゃり、辻元謙之助氏は同和鉱業創業の功労者である燃焼学の学者。父上徳三郎氏も同学者。母上八重子女史は地婦連、ほか社会教育や調停委員等、女性のためのカルチャースクールの先駆けの仕事等とリーダーシップを発揮しておられ、啓蒙されつつ、楽しく手伝わせていただいた。



在外公館再開によってチリに

昭和二十七年夏が終る頃、徳三氏の弟君である成田勝四郎氏が、南米チリ国公使として戦後始めて再開されるサンチヤゴに赴任されるとのこと、自由学園卒業で健康に自信のあった私に、従者として三年間くらいの予定で一緒に どうか、と相談を持ちかけてくださった。宮崎にいた母から「喜んで許す。行っていらっしゃい。」との電報も受け取り、成田公使の三人の子供の家庭教師としての任務のもと、外務省から当時きびしかった「公用」のパスポートが発行されて、十二月も終りに近い二十六日羽田を出発した。

成田勝四郎夫人房子様は、自由学園にたびたび訪れて、羽仁吉一、もと子両先生と親しくされておられた佐藤尚武氏(戦前、フランス、ロシア等の大使を歴任の外交官)の長女で生粋の外交官婦人でいらっしゃった。三年間、名実ともに尊敬もうし上げつつ、生活をともにさせていただいた私が師として仰いだお一人である。当時、チリは軍事政権でイバニュス大統領が国を治めておられ信任状奉呈式に馬車で行列を組んでの式典は美事なものであった。ちなみに隣国アルゼンチンはペロン大統領の時代であった。 昭和三十年八月、帰国が決まり、パナマ経由、「ぶらじる丸」一万トンの船で、処女航海を楽しみつつ、ゆっくり時間をかけて久しぶりに横浜に上陸した。


 
スウェーデン刺繍を創案

昭和三十一年五月から、いよいよ刺繍の先生をすることが、成り行き上自然にスタートした。常々「先生はどこにでも…」「人真似はいけないよ。」「ヨクミル・ヨクキク・ヨクスル」の言葉を、ミセス羽仁が礼拝の時におっしゃっておられたことが、私にはこのような形で具体化されることになった。日本を離れている時に、ふと見せられた刺繍をヒントに、まったくいままでに考えなかった″布地をすくいながら模様を構成してゆく″手法は、刺繍の指導をしていた祖母や母からの教えのなかにもいっさいない方法で、オリジナリティーにあふれた手法である。この刺繍を立体的に美しく誰にでも容易に刺すことが出来るためにと、キャンバス(刺繍布地)を織ることから着手した。 都下の青梅に東京都繊維工業試験場があり、武藤技師が私の作りたい織物について相談にのってくださり、よいアドバイスのもと、何日も通いつづけ60番手双糸と40番単糸を使いわけ、七子織り組織による刺繍布地を生み出すことが出来た。 織り目の下を針と糸がトンネルのようにくぐり易くするため、テンションをゆるめ、後にスウェーデンクロスと命名し、染色もこれまでの常識にこだわらず、作品に合わせて色数もどんどん増やし、二十色以上もの布地を作った。図案作りは、一人一人の個性や好みに合わせて即興でデザインをし、短期間の間に本を作るようにと持ち掛けられるくらいの模様の数が出来てしまい、面白いように次から次と口コミで人が集って来られ、第一冊目の本を出版することになった。 再版、重版と注文が間に合わないスピードで人気が集まり北から南まで、果ては台湾にまで普及され、小学生から年配者の方、刺繍をした経験の無い人にまで喜んで刺繍作品を作ることが流行として十年間くらい続き、数種類の出版物は今でもベストセラーとして戦後もっともヒットした手芸の一つにあげられている。 スウェーデン刺繍と名付けたことは、卒業後すぐお世話になったスウェーデン教師のヤンソン夫人への感謝と、国中の人が生活工芸(ヘムスロイド)を愛している北欧に学びたいとの思いを込めて命名した。


 
刺繍指導による交流と交遊

刺繍を学ぶための教室やサロンは各地に存在するが、年々形もスタイルも変わって来ることは自然のなりゆきと思っている。はじめの頃は、お伺いするお家のサロンを提供してくださるところに十人くらいで集って、午後お稽古を楽しみつつおしゃべりをしてお茶をいただき、曜日を決めて作品を次々と増やしてゆく。目白の徳川正子様宅、明治神宮々司、鷹司緩子様宅、学習院常磐会館でのおけい古日には各宮様方もお出ましくださり、歴史に残るようなお話も聞かせていただいた。徐々に形式も変化し、百貨店が友の会として教室をつくり、新聞社もカルチャーセンターとして広く呼びかけ、教える側も習う側も合理的に移行して来たことも時代の流れといえる。 一九九二年四月、永年の功労と手芸開発を認められ、科学技術庁長官賞を受けることになった。五十九人の表彰者のなかで、女性は私一人が選ばれ、刺繍作家としては初めてのことであった。 この推薦は社団法人婦人発明家協会という会であるが、女性ならではの考案や発明、アイディアを出し合って、年一回発表し奨励し合っている。この会に所属していることを私は誇りに思っている。 他にも、手工芸を指導する文部省財団法人の会や、奉仕活動を組織的に学び合って推進させる会にも余力を奉仕している。
四十三年間刺繍を柱としてビジネスにすることが出来た基礎勉強は、自由学園の美術、工芸の豊かな時間によるものがもっとも大きいといえる。土曜日の美術の授業は、彫刻、絵画、織物、染色、クリスマスの装師の勉強など学園の隅々から題材を求め、彩りを創り出し、胸をときめかして過ごした楽しい時だった。 何年か経た後、恵まれてフランス、イギリス、イタリア等へ旅することが出来る時代が訪れ、美術館を訪ねた時に、鑑賞眼が回を重ねつつ養われていること、学園で本物の教育に接する時を常に与えていただいた贈物と感謝しながら、いまも各地を楽しく旅をしている。最初の頃訪れたロンドンのビクトリア・アンド・アルパート工芸美術館はなかでも一番印象が強く、膨大な数の刺繍、レース、織物など、コレクションにただただ驚き、自分の知識の貧しさと同時に、どのようにこれから励んでゆくかを自分なりに考えた。工芸美術館がある、ケンジントン区に、小さなフラットを求め、毎日、心と思いをその工芸美術館の刺繍コレクションの部屋と、世界の一級品の展示されたレースの部屋に通わせることにした。私自身は、東京に在って、毎日の仕事に当たらねばならない状況ではあったが、たまに訪れる英国から、多くのことを学びとれるほど、伝統ある大英帝国を感じ、大英博物館ほか、骨董市、お城等からも、また刺繍という限られた範囲からだけでも、限りなく見えて来る手芸の奥の深さがわかり「先生はどこにでも……」の羽仁先生の教えが、至るところで活きていることを感ずる。自由学園で学んだ妹、美和子が三十年くらい前からフランスとドイツに住んでいる関係で、ヨーロッパに出かけることも比較的容易であった。ロココ時代の装飾美術を求め、ハプスブルグ家の工芸から刺繍の歴史を学び、ザルツブルグ、ウィーンを訪ね、ドイツやフランスの優美な陶器の図案から刺繍のデザインを学び、各地の美術館の所蔵する五世紀前後に織られたコプト織りに魅せられて、プチポアンの手法で復元を試みたりと、知るほどに創り出したい仕事の題材が見えて来る日々である。


 
中国との縁が成功への道をまねく

一九七八年からプチポアンに着手したのには、丁度日中友好関係が三月四日に大きな契機を迎え、訪中が自由になる発表があったことによる。たまたまその日北京に滞在中であった私は「これでやっと直接、北京に指導に来ることが出来る。嬉しいな!」と早速図案を持って一年四回、つまり三ケ月毎に刺繍工場に通い始めた。 その会社は国営の美術工芸品と宝飾品公司で、二十年の間に多くの係官が交替をしたが、終始変わらず一人の女性、李春麗女史が私たちの係として、今日まで通訳から商談、世話まで親身になってしてくださったことが、成功につながっている。
当時は課長であった李春麗さんは、美智子皇后様と聖心女子大学四年間をともに学ばれた才女でいらっしゃり、両陛下がご訪中をされた時も同席されておられる。 李春麗女史は二十年経った現在は経理(社長)として、私たちの会社の仕事を円滑に進めるために仕事をしてくださり、NTTに納める手づくり刺繍の美しい製品の仕事も、 順調に続けていて 十四年目を迎えている。通算八十回を重ねる訪中が順調に続き、私のような中小企業の会社が安定 したビジネスをして行けることも、中国との緑が小学生の頃から続き、私にとって故郷ともいえる国、中国ならではと思える。そして人間の信頼関係がお互い二十年間で築きあげられたことが大切な要因であると思う。
祝電はバラエティーに富むよう表紙のカバーを五色とし、刺繍の図柄も十五種類くらい選び、後利用が出来るように説明書を添えたり、工夫をした結果、評判もよく一九九八年五月より弔電にも起用されることになった。一九三八年、北京に自由学園生活学校が創立され、その卒業生の方たちの消息もわかりはじめた時、指導者であった山室光子先生、吉川奇美先生の連絡係として、劉風祥、王風儀さんからはじまり、昨年(一九九八年)創立六〇周年記念祝典を迎えるに至るまで、毎年、生活学校の卒業生たちと北京で親しく語り合える機会に恵まれ、その人たちもたびたび日本を訪ねられるまでになった夢のような平和を感謝し合っている。羽仁両先生の国を越えての大きな愛と教育の成果が、素晴らしい姿で中国に息づき、日中友好に活きていることは、学ぶことが実に多い。
山室光子先生は、一九九九年一月に亡くなられたが、晩年、北京からも日本からもかなえられる限り(ビザ取得はたいへん難しい。)交流の時を持ち合っておられたことが、どんなにかみんなのなぐさめであったことかを思いつつ、二月一日北京飯店に於て、吉川先生を迎え日本から秋田香さん、久家も加わって生活学校卒業生の方たちと心をこめた山室先生を偲ぶ会を行った。
劉風祥の連絡で宋聚石、何蒟華ほか多数の卒業生に加えて、友の会、「婦人之友」の読者会の方等二十五名が集り、日本から持参したビデオで告別式に合わせて、ともに祈り、讃美歌を唱い、おのおの用意された想いを涙とともに語り合うときを過ごせた。
羽仁両先生の教えが六十年過ぎたいまなお、脈々と中国の人々のなかに立派に活きているその純粋な姿に接し、教育の素晴らしさを思い深く感謝した。